今日は少し経路の違う内容です。
私は小学校中学校高校全て田舎の公立学校でした。
親からも、「学校の先生のいうことは聞きなさい。」という教育を受けてきました。
学校で正しいことは、正しいと考えていた
私は曲がった事が大嫌い。いわゆる優等生でした。教育に何も疑いを持っていませんでしたし、それが当然という意識の中で育っていました。
そんな私が、教育の矛盾を感じだしたのは、大学受験の時でした。
大学を選ぶにあたり、医学を目指していたのですが、当時私にはそのような知力はありませんでした。
しかし、内申点の対象となる高校2年生まではそこそこの成績を収めていたため推薦という手段を選択しました。
当時の担任からは、「推薦は、非王道。周囲への悪影響を避けるために自分が推薦を選択したことを絶対に言わないこと」という約束をさせられました。
くわえて、「推薦で合格していても、センター試験を受け、公立に願書を提出すること」を条件とされました。
理由は、「自分が勉強してきた、証を残すため」と言われていましたが、のちに高校の公立大学への合格率の高さを誇示するためであると知りました。
このような条件を与えられた私は、大学合格、入学後にも自分がその大学にいてはいけないのではないかという自己嫌悪感に見舞われ、自己を固定することができず、なんども大学をやめようと考えていました。大学生になってからも、高校の時の友達に大学名を伝えることもできず、孤独感にも見舞われていました。
これらのことで、学校教育・教師に対する私の信頼は完全に崩れました。
学校教育に対する不信感
私がこのような状態に陥ったのには、いくつかの理由が考えられました。
- 学校の先生は絶対という教育
- 親からも学校の先生の言うことは聞きなさいという教え
- 自分のなかの「正しさ」のみが正しいと考えていた世界の狭さ
もちろん人にもよりますが、残念ながら後輩にいじめと言われる傷害罪を加えるものもいます。
そもそも、教師の多くは、我々医師と同様に社会にでたことがありません。
また、仕事上で関わりあう人間の数でいうと、我々医師よりも少ないというのが一般的かとおもいます。
その中で、多様な人間像を育てるのは、難しいのではないかと思います。
一方で、たくさんの生徒を少人数で「管理」しなければいけないため、理想の教育像には手が届かない場面もあるのは仕方がないことではないかと思います。
学校教育の偏り
残念ながら、「学校のお勉強ができること=社会で通用していくこと」ではありません。
このことは、私の愛書、金持ち父さん・貧乏父さんでも触れられています。
改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん:アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学 (単行本)
学校では、お金の教育はほぼされません。
むしろ、日本ではお金の話はタブーに近い印象も受けます。
学校の先生は、
- 競争がない
- 年齢に応じて一定の年収が期待できる
- 学校の仕事のみで、ある程度安定した生活が得られる
- 以前は、退職金もたんまり出ていた
しかし、社会にでると、お金の知識がないことは致命的です。
多様性を認められない学校
先ほども述べましたが、学校は少ない人数でたくさんの子供を見なければいけないため、そこには規律が必要です。
どうしても、多様性を認めることには限界があります。
さらに、学校の先生がよくいう、「元気で明るい子になりましょう」は、多様性を認めるものではありません。
以前、テレビで見たのですが、このような目標はイジメの原因にもなり得ます。
その理由は、クラスの中で、明るく元気な子はみんなにもてはやされて、人気者になります。
逆に、明るくない・元気のない子は排除されやすく、クラスの中で放置されてしまいがちです。
学校教育と家庭での教育
学校教育では、「管理」がどうしても前面にでてしまうため、多様性を認めることに限界があると思います。
そこで、家庭ではもっと多様性を認めていけるような教育をしたいと考えています。
- お金の教育をする。話をタブーにしない
- 多様性をみとめる
- 学校の先生が絶対ではないことを教える
- 学校では、教えてくれない人生の愉しみ方を提案する
- 考え方がたくさんあり、完全に不正解なものは少ないことを伝える
まとめ
自分の経験から自分の子供への教育を考える時期にきました。
気負いすることなく、気長に子供たちにすこしでも、伝えていければいいと考えています。
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