【私見】情報・人を「信用するか?」「しないか?」は、受け手の自由であり、責任。

お仕事整形外科医です。


最近ネット上ではインフルエンサーが発信した情報の信憑性が問われたり、匿名の医師は信用ならない!という意見が出たりしています。


確かに、ネット上の情報は完全に溢れかえっており、全てを信じる行為は非常に危険です。


発信される情報が少ない時代には考えられないような、「情報選択能力」が問われているように感じます。


医師についていうと、権威ある先生が不可解な発信を週刊誌でされたり、お金を支払えば名医として取り上げられたりなど、「名出し」・「所属や役職の明記」が必ずしも信用を担保するものではないという意見すらあります。






そもそも、信用とは?

そもそも、私たちは「信用」するときには、”その人や情報を信じて、自分が用いる行為に自己が責任を持つ”と表現される方もおられます。


それだけ、情報が錯綜する時代には情報を取捨選択する能力が問われると言えます。


また、発信している本人も、もしたら間違った情報を発信しているかもしれない可能性がある。それを意図していなくても時間の経過とともに常識が変化し、その情報がそのまま残されていた場合に間違った情報を発信し続けている可能性があり、悪意がなくても、防ぎきれない部分もあります。


そうすると、発信者としては身を守るために、免責事項として受け手側の判断で利用してもらうように喚起することになりますが、そうすると結局は、受け手が「どう選択し、利用するか?」という点に回帰していきます。

「信用をしてください」という行為

この、「発信者が、誤情報を発信する可能性が防ぎきれない」という観点からは、発信者も受け手側に信用を無理にしてもらおうとする行為は利己的な考え方とも言えます。


信用自体は、短期で得られるものではなく(たまに、急激に信用してしまうこともありますが)、信用してくれと言えばいうほど怪しいものです。


大切な身近な人に信用してもらえれば十分というスタンスが、発信する側のメンタル的には心地いいのかもしれません。

まとめ

相手の考え方を変えようと必死になる行為自体が、自己中心的な考え方とも言えます。


信用は、相手の行為・言動をみて、したい人だけが自主的にしてくれるというスタンスがいい距離感なのかもしれません。



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